1966-10-11 第52回国会 参議院 運輸委員会 閉会後第2号
○大倉精一君 中部班の視察報告をいたします。 派遣委員は、金丸委員及び浅井委員と私の三人であります。 派遣期間は、九月六日より九日までの四日間で愛知、石川、富山の各県を回り、現地における運輸省地方機関の管内事情、国鉄の運営状況、名古屋港における港湾労働法の実施状況並びに港湾施設、空港施設及び船員養成機関の実情を調査してまいりました。
○大倉精一君 中部班の視察報告をいたします。 派遣委員は、金丸委員及び浅井委員と私の三人であります。 派遣期間は、九月六日より九日までの四日間で愛知、石川、富山の各県を回り、現地における運輸省地方機関の管内事情、国鉄の運営状況、名古屋港における港湾労働法の実施状況並びに港湾施設、空港施設及び船員養成機関の実情を調査してまいりました。
第一班、中部班鈴木恭一君。
○委員長(村山道雄君) 次に、前回の委員会におきまして、都合により延期いたしました中部班の派遣委員の調査報告を聴取することといたします。下村君。
まず、中部班の御報告をお願いいたします。
○小柳勇君 中部班は、九月四日から十日まで、野本理事と私が参加いたしまして、三十三年度決算の検査院指摘事項四件のほか、電源関路株式会社の御母衣ダムと愛知用水公団の牧尾ダムにつきまして調査や視察を行なって参りました。 まず、通産省所管の第二百七十四号及び第二百七十五号について申し上げます。
○近藤信一君 中部班の概要について御報告申し上げます。 中部班は、片町委員と私が参加いたしまして、一月二十日から二十二百までの、三日間にわたって伊勢湾台風による災害の復旧状況、工場立地の問題を中心にして、名古屋、四日市地区の産業事情並びに火薬工場を視察して参りました。
○大竹平八郎君 まず中部班から申し上げます。 派遣委員は栗山理事、鮎川、奥両委員、それに私の四名で、期間は、七月二十七日より三十一日まででございました。 視察個所を日程順に申し上げますと、関西電力黒部川第四水力発電所建設現場。高山市でいすなどの製造をしておりまする飛騨産業と春慶塗りの松沢漆器店。電源開発御母衣発電所建設現場。関市のフェザー安全剃刀会社。愛知用水公団の兼見トンネル建設現場。
○委員長(井野碩哉君) 次に中部班の報告につきましてお諮りいたしますが、やむを得ない事由によりまして、派遣委員のお方が御出席になっておりませんので、この報告を会議録に掲載することとして、御了承を得たいと存じますが、御異議ございませんか。 〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
○中島(巖)委員 ただいま中部班の報告を申し上げたのでございますが、これとも関連いたしまして、この中でも政府の道路政策について一部質問申し上げてあるのでありますが、これらと関連いたしまして、ちょうど来年度の予算編成期にもあたり、新聞などでいろいろ報道されておりますので、これは大臣に質問するのが当然でありますが、本日は、大臣もお見えになっておりませんので、政務次官もしくは道路局長に対して御質問いたしたいと
○中島(巖)委員 もう一つ河川局長にお伺いいたしますが、実は島根、広島の災害にも、私党としてあちらへ派遣され、またこのごろ、中部班の一員として災害地を親しく視察したのですが、従来の災害と最近の災害と違ったことは梅雨前線と申しますか、台風の通ったあとにおいて、停滞しておった気圧によって局部的に豪雨があるというようなことが、従来と非常に違っておるように感じたわけなんです。
四班出ていただきましたので、北海道班は石原幹市郎君、東北班は田中啓一君、中部班は伊能芳雄君、九州班は湯山勇君となっておるのであります。
○島村軍次君 近畿、中部班は、九月十一日より十八日にわたりまして、京都、大阪、愛知の各地方における補助団体及び日本国有鉄道、日本電信電話公社について現地調査を行なったのであります。
東北班には高橋議員、小野議員及び梶原議員、中部班には亀田議員及び羽仁議員、九州班には棚橋議員及び宮城議員の三班編成をもつて視察調査が行われました。以上であります。
調査項目は別に中部班で説明がございましたから、省略しまして、管内裁判及び検察事務の内容を主として広い範囲に及んでおりますが、これらは詳細な数字にわたつて書類に添付しておきました。
すなわち本委員会は東北、中部及び九州の三班に分れ、共通の調査項目を携えて昭和二十九年十月上旬六日または七日間にわたり出張調査を遂げたのでありますが、本日私は中部班を代表し、まず中部班が分担した各班共通の調査を報告し、次いでわが班がそれら共通調査のかたわら、特に調査し得たところをもあわせて報告いたします。
○床次委員 私から北陸、中部班の調査の報告を申し上げたいと存じます。 私どもの班は、中井委員と私と、それに曽根調査員を伴い、さらに自治庁の後藤税務部長の同行を得まして、一行四名をもつて調査いたして参つたのであります。 一行は八月十八日より五日間にわたりまして石川県、新潟県及び長野県の三県につきまして、県並びに県下の市町村それぞれ二箇所ずつを調査いたしたのであります。
今回の実地調査は主として各地における戰傷病者戰没者遺族等援護法の実施状況を調査いたしたのでありまして、関東・中部班の調査の対象といたしました県は、長野県、新潟県、群馬県及び日程を追加して調査して参りました栃木県の四県であります。
そうして東西南北にわかれて、中部班は日比谷公園で散会、これに参加したところの全部の参加者は平穏裡にわかれる、そこで堂々と停止をすることの順序があつて、来たか来ないかということは——すでに日比谷の交叉点から馬場先門の司令部を通るまでのせり合いといもうのは、なかなかそういう秩序われわれ行くようなものじやありません。今の記事はいかにも作文的にできておるので、参考のために申し上げる。
そもそも神宮外苑に集まりました五月一日のメーデーの人民が、デモ行進に移りましたときには、東西南北、中部班と、この五方面に分断しておるのであります。もちろんこれは共産党の陽動作戦による、あるいはまたその他の戰法も島上君がとられたことは事実であります。かりにあなたの言う外苑に五十万の大衆が寄つたと仮定いたしましても、これが五方面に分断されてデモ行進いたしておる。
それから中部班に加わりました朝鮮人の一隊が大体二千人くらいではないかと考えております。かような者がおそらく皇居前広場に入るであろう、従つてもちろんこれをできる限り阻止しようという考えでおりました。 さらにこういうことも考えておりました。
それから中部班はこれは青山外苑を出まして、赤坂見附からこの永田町の自由党本部前を通過いたしまして、この議会の裏を廻わつてそして霞ヶ関へ出まして、日比谷公園に出て解散をする、こういう五つの分散メーデー行進を実施することになつたのであります。